江戸・シンクロ・西洋近代

−その「からくり」の謎−

平尾　始

• 日本にカントはいたか

  　今を去ること１７年前の９月はじめ、私は大学院入試の対策をするため、友人二人と白馬山麓の民宿で「院試突破強化合宿」を行なっていた。（と言っても、夜は酒盛り昼間はサイクリングで、緊迫感は全くないのであった。）まだ残暑は厳しかったが、９月に入ってしまうとさすがに観光地白馬からも人波が消え、スキーシーズンまで民宿も暇らしかった。私たちの他には、某大学のドイツ語学の先生、そのスイス人の奥さん、まだ１歳にならない赤ちゃんの三人家族が泊まっているだけであった。

  　ある朝、食堂に朝食を食べに行くと、スイス人の奥さんが突然話しかけてきた。

  「あなたたちは哲学を勉強しているそうね。」
  「そ、そうです。」
  「知人に聞かれたのですが、西洋のカントにあたる哲学者は日本にいますか。」
  「明治以前の日本にですか？（三人でひそひそ話し合う。）…いないと思います。」
  「わかりました。ではそう知人に伝えます。」（ドイツ語で会話したと言いたいが、奥さんの日本語は完璧であった。）

  　こうして、私たちのせいで、日本にカントはいないことがヨーロッパでは定説になってしまったのであった。

• 突然現れたカント

  　ところが、それから二、三ヶ月後、朝日新聞の文化欄に、ある作家が書いた「日本のカント−三浦梅園」という論文が載ったのである。（見出しを見た時は本当に驚いた。ア〜ッと一人で叫んでしまった。）西洋哲学が専門の私が、日本の近代思想家を意識したのは、これがきっかけであった。

  　「日本のカントが誰か」を考えるためには、カントが西洋哲学にとってどのような位置にいるのかを知らなければならない。簡単に言うと、カントはイギリスの経験論哲学とヨーロッパ本土の合理論哲学をまとめた人である。

  　「経験論」というのは、人間は現実の世界と関わり、経験を積み重ねてはじめて人間らしくなるという考え方だ。それに対して「合理論」は、人間の人間らしさを（どこかで神とつながった）理性の働きで説明しようとする。カントは、人間が経験世界を論理的・理性的に捉えうること、同時に理性的な考察にも経験的な根拠が必要なことを述べ、哲学から「神は存在するか」といった「神学的堂々巡り」を排除すると共に、科学を哲学的に基礎づけたのである。

  　カント以後、西洋の哲学は人間の「自我」や「意識」を中心テーマとして選ぶようになる。自然探求は科学に任され、哲学は内的な世界を扱う学問になっていったのである。ここから考えると、カントは哲学を「自然のからくり」から引き離して、「内面のからくり」に向けた思想家と言えるかもしれない。

• 江戸文化と西洋の影響

  　さて、すると、日本にはこうした位置を占める思想家がいたのであろうか。

  　先に答えを言えば、やはり「いない」と答えるしかないだろう。というのは、カントと同様の思想が生まれるためには、やはりヨーロッパと同様に「合理論」や「経験論」が論争する土壌が必要だからである。しかし、日本には積極的に科学を否定する哲学も、また科学をバックアップする哲学も生まれてこなかった。自然を対象化せず、人間と自然を融合的に捉える東洋の伝統的哲学は、封建体制を支える思想として公認されていたのである。

  　しかし、「近代」という視点から江戸文化を見ると、そこには不思議に西洋との相似が現れている。江戸時代の前半は、デカルト、ライプニッツ、ニュートンたちが活躍した時代。江戸時代の後半は、カントやヘーゲルが活躍した時代である。

  　そこで、江戸の近代人である三浦梅園（１７２３〜１７８９）と安藤昌益（１７０３〜１７６？頃）について考えてみよう。

  　「日本のカント？」三浦梅園は難解な自然哲学書『玄語』を著したが、本業は医師であった。彼は「条理」という、世界を貫く「対立の原理」に基づいた自然解釈を考えたが、（この点ではヘラクレイトス以来の西洋の伝統に似ている。）これは精密なスコラ哲学に似て、「現実を解釈する」よりも「現実を解釈に合わせる」ような理論であるという批判もある。（『三浦梅園集』−岩波文庫−の解説で、三枝博音氏は、三浦梅園がカント以後の西洋哲学が明確化した弁証法的思想をもっていたとして、高く評価している。おそらく朝日新聞の文化欄の著者は、これに倣って日本のカント説をとったのであろう。しかし、三枝氏がデカルトやライプニッツを未熟な思想であるかのように扱っているのはいただけない。）

  　しかし、その一方で梅園は、医学に関しては、西洋科学の相当深い知識をもっていたようだ。当時、西洋医学の理論を人体解剖によって確かめようという動きが盛んであったが、１７５４年から１７７３年までに行なわれた解剖のうち、梅園は七件について情報を得ていたらしい。書物にしても、あの『解体新書』や『解体約図』に目を通していた。（『三浦梅園と自然科学』吉田忠・中央公論社「日本の名著・三浦梅園」所収による。）つまり、「体のからくり」に関しては、江戸の「からくり意識」は相当に進んでいたのである。

  　これは安藤昌益についても言える。『統道真伝』で彼は、世の学説の誤りを徹底的に批判し、論駁する。例えば、彼は生も死も自然の「気」の現われに過ぎず、「気」が進む時には「生」が現われ、「気」が退く時には「死」が現われると述べている。したがって、生と死とは対立しながらも「二つで一つ」なのであり、この「一つ」の「気」の動きは不滅であるから、人間の「生まれて死ぬ」あり方、物の「作られて壊れる」あり方は、それ自体が不変の「常」なるものである、と昌益は主張する。さらに「この（人間）一人がすなわち自然の全体である」のように、生と死の連続性から成り立つ自然のあり方は、一人一人の人間にも反映していると説く。
  （『統道真伝』上下・岩波文庫）

  　こうした思想は、今、「江戸のエコロジー」と再評価されている。しかし、江戸時代の前半にあたる時代には、ヨーロッパにはライプニッツがいた。彼の「モナド論」は、宇宙の全ての存在の連続性、精神と身体の連続性など、その後の有機体論・全体論の哲学に大きな影響を与えたのだが、安藤昌益の「気」一元論と通じるところが多い。やはり、「近代としての江戸」がここでも強く意識される。（昌益も解剖図によって妊娠と出産の過程を説明したりしている。トレンドだったんですね。）

• 謎のシンクロ

  　なぜ、鎖国中の日本に、西洋の科学や、科学を支える思想が断片的ながら伝わったか。もちろん、長崎を通じて（オランダを通じて）文献や情報が伝わったという事実はあるだろう。しかし、そこには不思議な歴史の「シンクロ」があることにも注意したい。

  　ライプニッツの哲学に影響を受けた「機会因論」というのがある。例えば、テレビのリモコン・スイッチを入れると電源が入るが、これは偶然ではなく、赤外線や超音波でリモコンと本体が結ばれているのである。それに対して、二個のデジタル時計は、別に結びつけられているわけではないが、かなり正確に同じ時刻を示す。自然もこうしたまとまり（ライプニッツ派の言い方では予定調和）の中で動いている、と考えるのが機会因論である。

  　この考え方を借用すれば、機械工業こそ発展しなかったが、後に明治以後の急速な近代化を可能にする地場産業をかかえ、また、幕府を揺るがすほどの流通経済支配力をもった商業ブルジョワジーが活躍した江戸時代は、西洋からの情報の移動とは別に、独立して「近代の意識」を生み出していたのである。権力の側が文化の西洋的な近代化にいくら抵抗しても、平賀源内や伊能忠敬が出てくるのは、こうしたシンクロのエネルギーが溜まっていたからだとも言える。これこそ江戸の最大の謎、江戸の最大の「からくり」であると言えるかもしれない。